試験直前

みなさん。こんにちは。

試験直前に何をやればいいのかわからない人に向けて書いていきたいとおもいます。


まず、試験直前は、もう新しいことを覚えるのはなかなか難しいです。(英単語や英文法、古文単語など)なので直前は「いままでやってきた内容をもう一度見直す」時間だと思ってください。


まずは、いままで使ってきた参考書を見直すことです。見直すと言ってもただ漠然と読むのではなく、過去問等を解いてメモしたところや、覚えたけれどもあやふやなところを中心にノートにまとめていくことが大事です。教科ごとにノートを分けるのではなく全教科で一冊使ってください。自分の弱いところだけがまとまったノートになるので試験日に見直す時にも有効になります。


また教科や科目によっては、問題をひたすら解くということも非常に有効です。例えば、日本史Bなんかはいままで解いていない問題をひたすら解いていくだけです。そうすることによって様々な問題に触れることができ、同じ分野の問題でも多角的・多面的に対応できるようになります。ここで大事なのは一問あたりに時間をかけすぎないことです。悩んだら飛ばして次の問題次の問題へと移っていってください。


あとは、基本中の基本ですが体調を崩さないことが大切です。体調管理というものは実は簡単ではなく、気をつけていないとこの寒さですので風邪をひくリスクが高くなってしまいます。勉強するにもまずは身体からということで、あまり直前は頑張りすぎないことも念頭においたほうがいいと思います。


一日前、二日前まできたら、大きく点数が変わることもないので過度の緊張をしないように、普段どおりの実力を出すことだけを考えてください。(と言っても難しいですが)


では頑張ってください!

Adios

群読について【小学校国語】

新しい学習指導要領では、生きる力をはぐくむことを目指している。生きる力とは、「確かな学力=知」「豊かな人間性=徳」「健康・体力=体」を合わせたものである。この生きる力を身につけるために、基礎的・基本的な知識及び技能を習得させ、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力等をはぐくむとともに、主体的に学習に取り組む態度を養うために、言語活動の充実を図るのである。国語科においては、「話すこと・聞くこと」や「書くこと」、「読むこと」に関する基本的な国語の力を定着させたり、言葉の美しさやリズムを体感させたりするとともに、児童の発達の段階に応じて、記録、要約、説明、論述といった言語活動を行う能力を培う必要がある。

 

 以上をふまえた上で、“群読”という学習活動について“言語活動の充実”という観点から批評していきたい。そもそも群読とは、単独、あるいは複数の読み手が文章や詩を分担しながら朗読することである。群読を行うことで、まず読む力を養うことができると考えられる。劇や紙芝居などの言語活動と異なり、群読は読む量が圧倒的に多い。また、読む際の抑揚や速さ、リズムなどの変化によって多種多様な読み方ができる。読む力以外にも、文章をグループでどう朗読するかを話し合ったり、発表で朗読をよりよくするために動きを加えたり、また他のグループの発表を聞いたりすることで“群読”を通じてさまざまな能力を培うことができるだろう。詩の学習で一番つけさせたい力は読む力であるが、そのための言語活動の工夫は様々に考えられる。紙芝居、劇、グループワーク等がある中で群読を選択する理由はなんだろうか。私はそれを各言語活動の特徴から考えた。紙芝居や劇というのは、詩や文章のすべてではなく部分的を取り上げて(自分の言葉でまとめて)行うものである。劇は動き中心、紙芝居は絵中心と言える。そのため、子どもたちは表現しやすいと感じるのではないだろうか。その反面、群読はどのように表現すればよいのか子どもたちには、わかりづらい面もある。もともとある文章にどのような工夫を加えられるかというのはたくさんあるが逆に選択しづらくしていると感じる。表現のしやすさという面では他の言語活動に一歩劣ったが、優れている点もある。それは高度な表現を可能にするという点である。つまり、劇や紙芝居と違って、文章のすべてを読みさらに解釈を加える群読は、作品の世界観であったり、作者の想いを、子どもたちが実感として理解できるのではないかと考える。文章の中の小さな表現が実は大事であったり、鍵となっていることもあるが、部分的に取り上げる劇や紙芝居ではそういった表現を逃してしまう可能性もある。作者の書いた文字に無駄なものはないという視点から、群読を行うことは言語活動の充実に非常にプラスに関わってくるのではないだろうか。表現しにくいという点があるといえども、一通り表現できてしまえば子どもたちにとって有意義な活動となるのが群読である。

日本人論を考える③

次に考えていきたいのは集団主義についてである。集団主義とは、各集団(学校、家族、友達、会社、組織、国など)の中で受け入れられている価値観や考えに沿って、あるいは合わせて、自分の行動指針を決定していく理念のことである。この集団主義もまた日本人を映す鏡であると私は考える。


日本が集団主義であることは、鈴木秀夫氏も述べている。日本が集団主義ならばどのような場面でそれが見受けられるのか、集団主義を如実に示しているのかを具体的に私の主張を述べたいと思う。まず私達の記憶に新しいものとして、桜宮高校での体罰問題がある。桜宮高校において教師による体罰が発覚したことが連日報道されていたが、これを集団主義の現れと私は捉えた。なぜなら、「体罰」は一般の人々にとっては「悪」であり教育上好ましくないものとしてまかり通っているが、今回の体罰執行教師のように一部の人々の価値観では正しいあるいは教育上必要だという価値観を持っている人もいる。なぜ体罰がなくならないのかといえば、昔では普通であってずっと当たり前だと思ってきたからである。一度浸透した考えというのは、個人の発言によって覆りにくいのである。集団主義においては集団の意向が優先され、個人の意向は抑圧されてしまう。今回の桜宮高校の件は体罰問題の一部に過ぎないが、私が集団主義を垣間見た事件であった。

 

次に集団主義を示す事例として公害問題が挙げられる。公害問題では、有名なものとして四大公害がある。水俣病新潟水俣病イタイイタイ病四日市ぜんそくの4つである。この問題は、4つとも被告側勝利として良い結果で公判が終わったことは事実であるが、収束はついていない。その後遺症に悩むひともいるし、全国ではまだまだ苦しんでいる人々もいるが、日本においてかれら少数派の意見は弱体化している傾向が見られる。個人よりも集団という名のとおり、被害者vs一般市民ではどうしても立場が弱まっている。これも、集団の意向を重視して多数決をとる日本の特徴でもある。

 


集団主義の例は、終身雇用制、社員旅行、系列会社組織など様々あるが、いずれも日本人の姿、特徴をあらわしている。しかし様々な例があるからといって日本=集団主義であると考えにくい面もある。日本で起こっているいじめは、集団からある人を排除するじつに集団主義の代表例だとも言われているが、同じようないじめは欧州、アメリカ、アジア近隣諸国でも起こっていることは事実である。日本にみられる一見すると集団主義にみえるが、実は時代背景に裏付けられたステレオタイプ的な見解をはらんでいる。

 

日本人論を考える②

次に、日本人は特にアメリカ人と比べて他人に無関心であるという印象をよく聞くし、私自身感じている。例えば、街で急に知らない人に話しかけられても態度をこわばらせたり、他人(=見知らぬ人)が困っていても特に関心を抱かないという事例が多いように感じる。しかし個人主義を掲げる欧米では違うようだ。知り合いはもちろん、知らない人が困っていたら助けてあげるのが欧米のポリシーであるらしい。それでは日本人が他人に無関心なのはただなる偶然なのだろうか。私はそう思わない。なぜかということを土井健郎著 『「甘え」の構造』を参考に説明していきたい。


まず筆者は、「甘え」は日本人の心理と日本社会の構造を理解するための重要なキーワードであるという。この甘えとは、自分の周りの人に好かれて依存できるようにしたいという、日本人特有の感情であると定義している。その甘えが日本人のどのような行動・態度を生み出しているかをみていくこととなる。先に結論を言ってしまうと、甘えるということは、「自分と他人の境界をあいまいにする」ということであるようだ。境界をあいまいにするということはどういうことかというと、筆者はこれを「遠慮」という言葉を用いて説明している。筆者は「遠慮」の有無によって日本人の人間関係を区別する目安になるという。遠慮がない身内は文字通り内であるが、遠慮のある義理の関係は外である。つまり内と外を分ける基準が遠慮なのである。この内と外で態度を変えてしまうことがよくある。例えば、個人的付き合いはいいが、自分と関係のない外の者に対しては傍若無人の振る舞いをしてしまうとか、自分の住んでいるところでは人目を憚って自重しているのに、見知らぬ土地に行くと勝手気ままに振舞うとかということがある。以上見てきたように、同じく内と外といっても、遠慮が多少とも働く人間関係を内と考えるか、あるいは外と考えるかによって、内容が異なってくる。図式化するとわかりやすいと思われるが、いま遠慮が働く人間関係を中間帯とすると、その内側には遠慮がない身内の世界、その外側には遠慮を働かす必要のない他人の世界が位置することとなる。ここで注目すべきなのは、一番内側の世界と一番外側は相隔たっているようで、それに対する個人の態度が「無遠慮」であるという点では相通ずることである。ただ同じ無遠慮であるといっても、前者では甘えていて隔てがないので無遠慮であるのに対し、後者は、隔てはあるが、それを意識する必要がないので無遠慮なのである。このように甘えが濃厚でも、また全く欠如していても、同じように人を人とも思わない態度が現れるのは興味深い。そして日本人にとって、身内に対する態度と他人に対する態度が違っても何ら内的葛藤の材料にはならないのである。

 

日本には集団から独立した個人の自由が確立されていないばかりでなく、個々や個人の集団を超越するパブリックの精神も至って乏しいことが、内と外の関係に由来しているのだ。ここまでみてきたようにやはり、日本人は他人に無関心であることを日本人論によってその性格を説明することが、ここでは可能であるように感じられた。

 

日本人論を考える①

2011年3月11日に日本は未曾有の大震災に見舞われた。この際、特に被災地における日本人の行動に対して外国メディアは次のような報道をした。「日本人は未曾有の災害に見舞われても個人的感情を抑制し、秩序を重んじた行動をとった」。「敬意と品格に基づく文化、愛国的な誇りが日本にはある」。「今回もっと大きな災難の中でも秩序意識を失わない日本人に驚きと敬意を表する」。などここには一部しか書いていないが驚嘆の声をもって報道していた。私自身この報道を聞いて妙に納得をしてしまった。普段日本人がこうであるということを意識していないにもかかわらずである。報道の中で日本人が略奪をおこなったことは一度も流れず、秩序正しく救済物質を受け取る日本人の姿が流れるたびに日本人論は私達を映す鏡ではないかと考えた。

 

この震災での日本人の態度を表現あるいは説明できる日本人論として和辻哲郎氏の『風土』を例に理由を説明したい。和辻氏によれば風土によって文化的性格を3つに分類できるという。(『風土』和辻哲郎 岩波書店、1979)自然の暴威が迫る環境で受容的・忍従的な態度をとるモンスーン型、不毛の土地であり死と隣り合わせな環境のため対抗的・戦闘的になる砂漠型、自然の法則性を保つ穏やかな環境をもち、自発的・合理的な態度をとる牧場型の3つである。このなかで日本はモンスーン型にあたる。深刻な防風・大雨・洪水が襲い、また、干ばつ、冷害、雪害、地震に見舞われることの多い風土を持つからである。これらの自然の暴威に対抗してしまうと被害が大きくなってしまうことを感じ取り、ひたすら耐え忍ぶということを培ったのである。

 

今回の地震でも同じように略奪などを我慢し耐え忍ぶという日本的態度があったからこそ、日本人がこのような行動を導いたのであるといえる。しかし、震災を通じて、ガソリン、水などの物資の買い占めや、一部の人々による犯罪など。必ずしも日本人論で説明できるとは限らないパターンも見受けられたことは興味深い。

 

『国際協力と平和を考える50話』感想

岩波ジュニア新書の『国際協力と平和を考える50話』の中から気になった話をピックアップして、感想を書いてみました。


1,文明の衝突
2001年の9月11日に起こった「同時多発テロ」は過去最大のテロ事件といっていい。この事件によって改めて文明の衝突を味あわされた私たちは、いつしか文明の相違を力で解決しようと考えてしまっている。しかし、それでは戦争のない世の中を作ることはできないと感じる。国または地域によって考え方や文明、文化が異なることは何らおかしいことではない。むしろさまざまな文明があるからこそ、お互いの刺激をうけ、また発展してきたといえるだろう。一人ひとりの人と同じように一つひとつの文明も尊重することが大切だと思う。
 


4.おどしとしてのテロリズム
  テロの条件は①政治的・社会的目的で、②脅威・威圧をねらって、③非合法に武力を使うこととされている。しかしながらアメリカが行っている報復行動はテロとなんら変わりのないものになってしまっているのではないだろうか。今の時代では政治に不満をもつことで攻撃を行えば、すべて「テロ」という最低の烙印を押されてしまうのが現状である。政治に不満をもつことは悪いことではな  いが、その攻撃に対する報復をもう少し見直すことが平和的にも必要だと感じる。

 

5.嘘つきは戦争のはじまり
  戦争の実態が、ねつ造あるいはまったく違う情報に差し替えられて報道されることがほとんどという。この報道をみるのは私たち一般市民であり、その報道を通じてしか戦争を見ることができないのが現実である。戦争を映す唯一の報道がねつ造されていたら、事実とは異なった(戦争に対する)価値観や思想、考えが植えつけられてしまう可能性もある。そしてそのねつ造が敵国への憎悪や怒りを助長するものであれば、国民全体で、戦争をすることへの抵抗が徐々に薄れていってしまうかもしれない。そうならないためにも、ありのままを映すことが必要であると感じる。

 

6.100人の村に20人の栄養失調
  世界にいわゆる貧困層と呼ばれる人々がいることは知っていた。しかし、もし世界が100人だとしたら20人は栄養失調であるという記述を見て、その多さに驚いた。これだけの人々が充分に栄養をとれていないということは、裏をかえせば裕福で栄養が足りすぎている人がいるということだ。この格差はあまりにも大きいもので簡単に是正するのは難しいかもしれない。しかし、先進国が発展途上国に援助するのと同じように、なんらかの支援を国際的な視点から見ていく必要があると感じた。

7.地球の収容力は80億人まで?
  2015年1月31日の段階で全世界の人口は72億人を超えている。予想では、2100年には100億人を超えるというデータもあるそうだ。この人口爆発とも呼べる人口の増加に伴って、食糧をはじめとして、石油や資源、病院や学校など様々なものが不足していってしまう。しかし、私たちは戦争をわざわざ引き起こし食糧不足をさらに加速させてしまっている。平和とはまた違った視点から、戦争の抑止を叫ばないといけないと感じる。人口爆発はとめられなくても戦争はとめられるだろう。

 

10.氷河が溶ける
  「地球温暖化」という言葉は小学校2年で聞いてから、いままで何度聞いてきただろう。おそらく環境問題のなかで、最も調べたり考えてきた問題であると感じる。最近車に乗るようになったがその便利さに惹かれ排気ガスのことなど考えないようになっていた。長い期間で見たときに、そのような小さな問題が積み重なって大きな地球温暖化につながっていくのだろう。そのため、わたしたちは身の回りでできることからやっていく姿勢を身につけていくことが必要であると感じる。

 

36.ニッポン、チャチャチャ
  愛国心とよばれるものは私の中にも存在する。スポーツにおける日本代表の試合を観戦し、日本が外国に勝っていく姿をみるとまるで自分のことのように「誇らしい」と思ってしまうことがよくある。これも一種の愛国心の現れではないかと感じる。愛国心はその規模によらず国民性をうつす良い鏡にもなるのではないかと考える。自分の住んでいる地域から国全体を通じて心のよりどころをみつけ、「ふるさと」として存在し、自分たちを見つめなおすきっかけになるかもしれないからだ。

 

37.監視される社会を監視する
  日本は監視社会だとなにかで聞いたことがある。たしかに一歩町をでれば、自分たちが監視カメラによっていつでも撮影されていることに気づく。本当であればプライバシーの侵害である監視カメラがこんなにも世に中に浸透したのはそれだけ犯罪防止や犯罪発見に役立っているということだろう。そのなかでいつしか私たちは監視されているという実感をあまり抱くことがなくなっているようにも思われる。人権と犯罪抑止という二つの相対する立場の中和がいまの状態ではないだろうか。

 

45.みんなちがってみんないい
  SMAPの「世界に一つだけの花」の歌詞にある【ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン】。私がこれを初めて聞いたのが小学校高学年のときだったが、当時、オンリーワンという言葉に惹かれた記憶がある。そしていまこの歌詞を振り返ってみると、日本国憲法の個人の尊重と重なり、非常に趣深いと感じた。競争社会そのものは必要なものであるが、どこかにオンリーワンを求めていくことも必要であると感じた。

 

47.まだ食べられる残飯
  友人同士でご飯を食べに行ったとき、自分を含め、食べきらずに残すということが多からずある。確かにもったいないと思うが、お金を払っているという理不尽ともいえる理由であまり気にもしていなかった。しかし日本全体の残飯が全食料の2割というのを聞いて、改めて日本の豊かさを知るというよりも、貧困で食糧に困っている国々の大変さを知った。もしも、残飯として処理される食料が貧困国にきちんとした食料として届けられればと考えてしまう。しかしそれは絵空事なのかもしれない。

 

モンスト強キャラランキング

モンスターストライクというアプリゲームをご存知でしょうか。3200万ダウンロードを突破し、大人気の引っ張りアクションゲームです。CMでダチョウ倶楽部の上島さんが出たことでも有名ですが、略してモンストと呼ばれています。今回はそのモンストで私が強いと思うモンスターベスト5をその理由も合わせて考察していきたいなと思います。

 

5位  サタン
神、魔王、魔族、妖精の4種族の敵に対して、攻撃力が2倍になるキラーMを持っている。アンチギミックこそ持っていないものの、オールアンチSSが8ターンでうてるので全く気にならない。つまり、どんなクエストでもキラーが対象であればどこでも無類の強さを発揮する。例えば覇者の塔39階のボス最終ゲージ、二段階目SSで弱点をきれいに横カンすればワンパン可能である。ロキであってもそれはできない。汎用性の高さと、一発逆転の狙える攻撃力を考慮した。ただし、キラーの刺さらないクエストには連れていけない。

4位  ウリエル
AGB+ADWのアビリティ、号令SS、範囲の広い十字レーザー+エナサーを持つ。まず、汎用性が高い。連れて行けるクエストがかなり多い。アーサーと区別できる点は、レーザーバリアに弱くないという点である。また、SS最短12ターン号令は、取りにくいハートを取りに行ったり、雑魚の処理などに使えるし24ターン号令はピンチを打破できる程の火力が期待できる。また貫通なのでみんなに当たりやすいというのも高評価のポイントである。

3位  ラファエル
ADW+MSM、回復のアビリティ、号令SS、十字レーザーの友情を持つ。まず、現状のモンストにおいて回復のアビリティはかなり重宝される。回復なしの高難易度が多いのはもちろん、敵の攻撃の威力もまして来ているので、いかにHPを保持できるかが肝となってくるからだ。それに加えてダメージを食らう系のギミックに完全対応しており、汎用性も高い。火のクエストであれば、地雷と重力がなければとりあえずラファエル連れて行けば間違いない。

 

2位  パンドラ(進化)
2017年の新登場キャラクター。現状完璧にささるクエストは多くはない。だがスペックのみで3位に入れさせてもらった。超AGB+MS、ドレインのアビリティ、パンドラの匣SS、エナジーバーストを持つ。まず、今後のクエストでドレインがかなり使えるのではないかと思う。現状、回復手段は、ハートを取る以外に、友情の回復、SSの回復のみだが、これらは不確定要素が強すぎる。ハートはとれない位置(モンスターに挟まっている等)にでるかもしれない、友情は全員に当たらなければ意味がないし、SSは使うタイミングが限られる。しかし、ドレインは自分の行動ターンになるごとに発動でき、HIT数とダメージを稼げれば十分に回復できる。敵と敵の間、狭い隙間に入れば簡単に回復量を増やすことができ、タイミングも選ばないので強いと思う。あとSS。火力が安定しやすいのと、麻痺などの恩恵も受けやすい。一気に形勢を立て直すことができる。またエナバも使い方は難しいが、うまく弱点と重なれば、100万だすことも可能。


1位  服部半蔵
AGB+AWのアビリティ、無敵SS、超強斬撃の友情を持つ。このキャラクターの強いところはSSにある。現状のモンスとの高難易度クエストでは必ずといっていいほど、即死攻撃がある。だが、半蔵のSSは二段階目だと5ターン持続するので、艦隊はもちろん2体いればゆうに即死攻撃を耐えることができる。高難易度をクリアするにあたってこれほど頼りになるSSはないのではないだろうか。もちろんアビリティとの相性もあるが、ほとんどのクエストでくさらない性能を持っている。友情も弱点判定を持っており高火力、無敵SSに汎用性の高いアビリティと、文句のつけようがない。誰が使っても強いキャラである。