日本人論を考える②

次に、日本人は特にアメリカ人と比べて他人に無関心であるという印象をよく聞くし、私自身感じている。例えば、街で急に知らない人に話しかけられても態度をこわばらせたり、他人(=見知らぬ人)が困っていても特に関心を抱かないという事例が多いように感じる。しかし個人主義を掲げる欧米では違うようだ。知り合いはもちろん、知らない人が困っていたら助けてあげるのが欧米のポリシーであるらしい。それでは日本人が他人に無関心なのはただなる偶然なのだろうか。私はそう思わない。なぜかということを土井健郎著 『「甘え」の構造』を参考に説明していきたい。


まず筆者は、「甘え」は日本人の心理と日本社会の構造を理解するための重要なキーワードであるという。この甘えとは、自分の周りの人に好かれて依存できるようにしたいという、日本人特有の感情であると定義している。その甘えが日本人のどのような行動・態度を生み出しているかをみていくこととなる。先に結論を言ってしまうと、甘えるということは、「自分と他人の境界をあいまいにする」ということであるようだ。境界をあいまいにするということはどういうことかというと、筆者はこれを「遠慮」という言葉を用いて説明している。筆者は「遠慮」の有無によって日本人の人間関係を区別する目安になるという。遠慮がない身内は文字通り内であるが、遠慮のある義理の関係は外である。つまり内と外を分ける基準が遠慮なのである。この内と外で態度を変えてしまうことがよくある。例えば、個人的付き合いはいいが、自分と関係のない外の者に対しては傍若無人の振る舞いをしてしまうとか、自分の住んでいるところでは人目を憚って自重しているのに、見知らぬ土地に行くと勝手気ままに振舞うとかということがある。以上見てきたように、同じく内と外といっても、遠慮が多少とも働く人間関係を内と考えるか、あるいは外と考えるかによって、内容が異なってくる。図式化するとわかりやすいと思われるが、いま遠慮が働く人間関係を中間帯とすると、その内側には遠慮がない身内の世界、その外側には遠慮を働かす必要のない他人の世界が位置することとなる。ここで注目すべきなのは、一番内側の世界と一番外側は相隔たっているようで、それに対する個人の態度が「無遠慮」であるという点では相通ずることである。ただ同じ無遠慮であるといっても、前者では甘えていて隔てがないので無遠慮であるのに対し、後者は、隔てはあるが、それを意識する必要がないので無遠慮なのである。このように甘えが濃厚でも、また全く欠如していても、同じように人を人とも思わない態度が現れるのは興味深い。そして日本人にとって、身内に対する態度と他人に対する態度が違っても何ら内的葛藤の材料にはならないのである。

 

日本には集団から独立した個人の自由が確立されていないばかりでなく、個々や個人の集団を超越するパブリックの精神も至って乏しいことが、内と外の関係に由来しているのだ。ここまでみてきたようにやはり、日本人は他人に無関心であることを日本人論によってその性格を説明することが、ここでは可能であるように感じられた。