日本人論を考える③

次に考えていきたいのは集団主義についてである。集団主義とは、各集団(学校、家族、友達、会社、組織、国など)の中で受け入れられている価値観や考えに沿って、あるいは合わせて、自分の行動指針を決定していく理念のことである。この集団主義もまた日本人を映す鏡であると私は考える。


日本が集団主義であることは、鈴木秀夫氏も述べている。日本が集団主義ならばどのような場面でそれが見受けられるのか、集団主義を如実に示しているのかを具体的に私の主張を述べたいと思う。まず私達の記憶に新しいものとして、桜宮高校での体罰問題がある。桜宮高校において教師による体罰が発覚したことが連日報道されていたが、これを集団主義の現れと私は捉えた。なぜなら、「体罰」は一般の人々にとっては「悪」であり教育上好ましくないものとしてまかり通っているが、今回の体罰執行教師のように一部の人々の価値観では正しいあるいは教育上必要だという価値観を持っている人もいる。なぜ体罰がなくならないのかといえば、昔では普通であってずっと当たり前だと思ってきたからである。一度浸透した考えというのは、個人の発言によって覆りにくいのである。集団主義においては集団の意向が優先され、個人の意向は抑圧されてしまう。今回の桜宮高校の件は体罰問題の一部に過ぎないが、私が集団主義を垣間見た事件であった。

 

次に集団主義を示す事例として公害問題が挙げられる。公害問題では、有名なものとして四大公害がある。水俣病新潟水俣病イタイイタイ病四日市ぜんそくの4つである。この問題は、4つとも被告側勝利として良い結果で公判が終わったことは事実であるが、収束はついていない。その後遺症に悩むひともいるし、全国ではまだまだ苦しんでいる人々もいるが、日本においてかれら少数派の意見は弱体化している傾向が見られる。個人よりも集団という名のとおり、被害者vs一般市民ではどうしても立場が弱まっている。これも、集団の意向を重視して多数決をとる日本の特徴でもある。

 


集団主義の例は、終身雇用制、社員旅行、系列会社組織など様々あるが、いずれも日本人の姿、特徴をあらわしている。しかし様々な例があるからといって日本=集団主義であると考えにくい面もある。日本で起こっているいじめは、集団からある人を排除するじつに集団主義の代表例だとも言われているが、同じようないじめは欧州、アメリカ、アジア近隣諸国でも起こっていることは事実である。日本にみられる一見すると集団主義にみえるが、実は時代背景に裏付けられたステレオタイプ的な見解をはらんでいる。